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東京高等裁判所 昭和26年(ネ)2419号 判決

第一審原告(第二四六七号控訴人・第二四一九号被控訴人) 森口安次郎

第一審被告(第二四一九号控訴人・第二四六七号被控訴人) 大木貞次

主文

第一審原告の控訴はこれを棄却する。

第一審被告の控訴に基き原判決を取り消す。

第一審原告の本訴請求(当審における拡張部分を含め)を棄却する。

訴訟の総費用は第一審原告の負担とする。

事実

第一審原告代理人は「原判決を次のとおり変更する。第一審被告は第一審原告に対し、金百六十五万六千円及びこれに対する昭和二十五年三月六日よりその完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。第一審被告の控訴はこれを棄却する。訴訟費用は第一、二審とも第一審被告の負担とする。」との判決並に仮執行の宣言を求め、第一審被告代理人は主文同旨の判決を求めた。

当事者双方の事実上の供述は、当審においてそれぞれ次のとおり追加訂正した外、原判決事実摘示と同一につき、これを引用する。

第一審原告の主張

(一)  第一審原告は、当審においては従前請求原因として主張した不法行為を第二次的の原因とし、第一次的には債務不履行を主張する。

原判決事実記載の如く、第一審原告は本件家屋二棟を昭和二十二年十月二十五日第一審被告より旅館営業のために期間を定めず賃借し、爾来右家屋において旅館高砂館を経営していたところ、第一審被告は昭和二十三年三月三十日右二棟を国(東京拘置所)に売り渡し、同年四月二十八日所有権移転登記を完了した。元来賃貸人は賃借人をして賃借物をその用法に従つて使用収益せしむべき契約上の義務を負担しているのであるが、第一審被告は国が東京拘置所職員(看守)の宿舎とするため買入れんとするのに応じ、第一審原告賃借の事実をことさらに隠蔽し、右買入交渉に当つた同拘置所用度課長花田音助に対し、第一審原告は本件建物につき賃借権も旅館の営業権も有せず、同人は単なる管埋人にすぎないから、即時建物の使用可能であると申向け、よつて同人をしてその旨信用せしめて、看守宿舎として本件建物を国に買取らしめるに至つたのである。その結果、第一審原告は本件建物の使用収益をなすことを妨げられて、営業上多大の損失を蒙つた。これは結局第一審被告が賃貸人としての義務を尽さないことによるのであるから、第一審原告は第一次的に右債務不履行を原因として損害の賠償を請求する。

(二)  右請求が理由ないとしても、第一審被告の前示行為は、故意若しくは過失により第一審原告の有する賃借権並に営業権を侵害し、不法行為を構成するものであるから、これを第二次的の原因として損害の賠償を求める。

(三)  損害額について、

本件旅館高砂館は、第一審原告自身がその経営に当つた日こそ浅けれ、訴外稲葉つるゑにおいて終戦直後より営業しており、可成りにその名も知られていたのであるから、許可営業たる旅館の営業権は借家権をも含めて相当高額に評価されて然るべきである。右高砂館は、新館に四帖半室十六室ありそのうち一室を女中部屋に充てているので十五室が客用として使用でき、又旧館にあつては客室に使用しうるもの十一室を有し、全体で日収平均五千円に上つていた。これ等の点から見て、借家権を含む営業権の価額は当時百二十万円を下らないと見られる。然るに本件建物売買の結果、昭和二十三年五月五日東京拘置所職員大島敏夫外十四世帯が本件建物のうち新館を占有するに至り、そのため新館における営業は勿論のこと、旧館においても外見巡査に紛らわしい制服を着用した看守達の出入することを嫌つて、投宿客(場所柄連れ込み客が多い)は全く跡を絶つに至り、旅館営業の継続は不能の状態に陥つてしまつた。よつて第一審被告に対し、右営業権喪失による損害の賠償として金百二十万円を、東京拘置所職員入居の日の翌日たる昭和二十三年五月六日より昭和二十五年三月五日までの間、得べかりし営業上の利益(経費を差引いた純益)喪失による損害額三百三十万円のうち金四十五万六千円を、それぞれ支払うべきことを求める。但し若しも借家権を含む営業権の価額が百二十万円に達しないと認められるときは、その差額丈け営業収益喪失による損害金のうち本訴において請求する額を増加し、いずれにしても控訴の趣旨記載の金額及びこれに対する遅延損害金の支払を請求するものである。

(四)  第一審原告と国との間の調停に関する第一審被告の抗弁について。

この抗弁は時機に遅れて提出され、且つこれが審理により甚しく訴訟の進行を遅延せしめるから、却下を求める。

仮りにその提出を許すとしても、右抗弁は理由がない。即ち第一審原告は、不法に入居した東京拘置所職員大島敏夫外十四名を被告として東京地方裁判所に占有回収の訴を提起し、国は被告のために補助参加をなし、一方国より第一審原告に対し家屋明渡請求訴訟が提起され、これが調停に付せられた結果、第一審原告としても東京拘置所職員の住宅困窮し公務の遂行に支障を来す虞あること及び国が第一審原告に対してなした解約申入による明渡請求の正当性の存在をも考慮せざるを得ざるに至つたので、昭和二十五年三月三十日国との間に調停を成立せしめ、第一審原告は同年四月二十日限り本件建物より退去すべく、国は明渡を条件として金七十五万円を第一審原告に支払うべきことを約した。しかして第一審原告が国より受領した右金員は、国の不法侵入に対する損害賠償金たる性質を有するものでなく、家屋明渡に伴う通常の移転料として、従業員の解雇手当や荷物の運搬、移転先物色等の費用に充てらるべき趣旨であつた。故に右金員は第一審被告の本件債務不履行若しくは不法行為による損害賠償の請求とは本来何等の関連も有しない。さればこそ右調停条項の第四項但書において「森口安次郎の大木貞次に対する損害賠償の請求に関しては、本調停により何等の影響も及さない」と記載し、その趣旨を明かにしているところである。

第一審被告の主張

(一)  建物の賃貸人がその所有建物を他人に譲渡することは、所有権の作用であつて、それ自体当然に不法行為若しくは債務不履行を構成するものではない。只当事者間に賃借物件を他に譲渡しない特約が存するとか、譲渡の結果賃借権が失われるような場合に、或は賃貸人の債務不履行となることがありうるにすぎない。本件建物につき仮に第一審原告がその主張の如き賃借権を有していたとするならば、第一審被告がこれを賃借権の負担なきものとして国に譲渡したからといつて、第一審原告の賃借権には何等の消長を来すことなく、第一審原告はその賃借権を以て国に対抗し得た筈である。

(二)  故に、第一審原告の主張に従えば、第一審原告は東京拘置所職員を相手取つたその主張の占有回収訴訟及び国の提起した家屋明渡訴訟において、当然勝訴の判決を受けうべき筋合であつたに拘らず、国が第一審原告に対してなした解約申入による「建物明渡請求の正当性の存在をも考慮せざるを得ざるに至つた」として、国との間の調停に応じ、本件建物を国に明渡して移転料名義の下に金七十五万円を受領し、損失の代償を得たのである。さすれば第一審原告の賃借権消滅の原因は、第一審被告の譲渡行為自体ではなく、正当事由を具備した新賃貸人の解約申入なる事実に基くものであり、これも元をただせば、第一審原告が賃貸借契約において長期に亘る期間の定を設けてその賃借権を確保する措置に出なかつたことからして、生じた結果に外ならない。而して右解約申入の当否を別論とするも、第一審原告は要するに自己の意思に基き、国に対する賃借権を放棄してその代償を取得した関係であるから、第一審被告に対し、賃借権等の喪失による損害の賠償を求めうべき理由はない。

(三)  ところで、第一審原告が右調停により国より支払を受けた金員は、その名目の如何を問わず、第一審原告の旅館営業継続不能による一切の損害を賠償する趣旨に出たものであり(これが単なる移転引越の費用に止るものでないことは、その額が当時としては金七十五万円という高額に上ることから見ても極めて明白である)、東京拘置所職員の入居以来第一審原告が受けたとする損害は完全に補填され、最早第一審被告に対し請求すべき何等の損害額も残存していないのである。調停条項に右調停が第一審被告に対し何等の影響も及ぼさないと記載してあるからといつて、事実損害のないところに損害賠償はあり得ない筋合である。

(四)  第一審原告の請求原因の変更には異議はないが、その主張の損害の数額は争う。

証拠方法〈省略〉

理由

東京都葛飾区高砂町四百三十八番地所在(一)家屋番号同町十番木造瓦葺二階建一棟建坪三十九坪五合二階二十五坪(二)家屋番号同町十一番二木造瓦葺二階建一棟建坪三十七坪五合二階三十七坪五合が、いずれも第一審被告の所有であつたことは当事者間に争なく、第一審被告が昭和二十二年十月二十五日これを第一審原告に対し、旅館営業の目的を以て賃料一ケ月金五千円の毎月末日支払の約で期間を定めず賃貸したこと及び第一審原告は自己名義を以て旅館営業の許可を得た上、その妾井関喜美子を同所に住わせ、旅館高砂館の経営に従事せしめてきたこと、従つて第一審被告が旅館主となり第一審原告に管理を委任して同旅館を経営していたものであるとの第一審被告の主張を採用し難いことは、原判決理由に詳細説示するとおりであつて、当裁判所もこれと所見を同くする故右の説示を引用すべく、当審における第一審被告本人尋問の結果中この認定に牴触する部分は措信するに足りない。しかるに第一審被告が昭和二十三年三月三十日右二棟の建物を国(東京拘置所)に対し、代金百五十万円を以て売り渡し、同年四月二十八日所有権移転登記を経由し、次で同年五月五日頃より中旬頃までの間に同拘置所看守大島敏夫外十四世帯の者が本件(二)の建物(以下これを新館と称し、(一)の建物を本館と称する)に入居するに至り、爾来これを占有していることは、第一審被告の認めるところであり(但し看守等の最初に転入した日が昭和二十三年五月五日であることは、原審証人森田千代乃、井関喜美子第一回の各証言、第一審原告本人の第一、二回供述によつてこれを認める)、成立に争のない甲第三十一号証の一、二第三十四号証原審証人花田音助、広沢孝一の各証言及び弁論の全趣旨に徴すれば、本件建物売却に当り第一審被告は国(東京拘置所)の経理担当係官に対し、第一審原告は第一審被告のための単なる留守番若しくは管理人であつて、賃借権及び営業権を有するものでなく、国が買収すれば直ちに建物を使用するに妨げなき旨申向けたので、国はこれを信用し、東京拘置所職員の宿舎に宛てるために本件建物を買取り職員を取あえず右新館に入居せしめ、その結果第一審原告が新館を営業用に使用し得なくなかつた事実を肯認することができる。凡そ建物の賃貸人がその所有建物を他に売却処分すること自体は、特約を以てこれを禁じてない限り、所有権本来の効力としてもとよりその自由に属するところであるが、建物売却により賃借人の権利が当然に消滅する結果となる場合は勿論のこと、仮令賃借権そのものは新所有者に対抗しうるとしても、賃貸人においてその建物に賃借権の負担がなく、買主が即時これを使用するに支障なきものとして売却し、それがためこれを信じて買受けた新所有者と賃借人との間に紛争を生じ、事実上賃借物の使用収益が妨害されるような場合には、賃貸人として目的物を完全に賃借人の継続的な使用収益に供すべき義務を履行せざるものとして、これにより賃借人の蒙つた損害につき賠償の責を免れぬものというべきである。

よつて第一審原告主張の損害額につき按ずるに、第一審原告が東京拘置所職員の新館入居により、昭和二十三年五月五日以降これを旅館営業に使用し得なくなつたことは前記のとおりであるが、これにより旅館の経営が全面的に支障を来したという訳ではなく、第一審原告は依然本館の建物を使用し、少くも昭和二十五年三月末頃まで旅館営業を継続していたことは、原審証人井関喜美子(第二回)の、看守が新館に引移つた「その後は本館のみで営業しておりましたが、昭和二十五年三月三十日だつたと思いますが廃業しました」とある供述部分、成立に争のない甲第三十五号証により明かな、第一審原告が国との間の調停において、昭和二十五年四月二十日限り本件各建物を国に明渡すべく、国は本館の部分に限り井関喜美子に対し、同年九月末日までその退去を猶予する旨約した事実と、原審最終口頭弁論期日において第一審原告自ら「原告は昭和二十二年十月三十一日開業し、昭和二十五年九月三十日廃業した」と陳述している点(記録三九六丁参照)とを併せ考えれば明かであつて、第一審原告代理人が当審で主張するように、刑務官吏の新館占拠の影響を受けて本館の宿泊客も杜絶え、営業の継続が不能となつてしまつたというが如きは、これを認めるに足る何等の証拠がない。ところで原審証人井関喜美子(第一回)斉藤伊勢吉、木村かね、斎藤ミサ子、稲葉つるゑの各証言及び原審における第一審原告本人尋問の結果(第一、二回)と成立に争のない甲第十四、第十五号証乙第一号証とによれば、第一審原告は前経営者稲葉つるゑの跡を受けて旅館高砂館の営業を始め、最初の頃は本館のみを使用し、その後幾分新館をも併用するに至つたが、本件各建物は昭和二十二年水害により各所破損したため、第一審被告が多少修繕を施したけれども、なお第一審原告においても賃借後相当金額を投じて修繕したのであり、さして立派な体載を備えているものでないこと、及びその営業成績も振わず、収入は全体で一ケ月金八千円ないし一万二千円平均一万円程度を出でず、後に業績多少上進したとしててもせいぜい月収二万円程度に過ぎなかつたものと認められ、この認定に反する原審証人井関喜美子第二回の証言及び当審鑑定人畠山卯三郎の鑑定の結果は採用するに足りず、第一審原告その余の立証によつては右認定を覆すことができない。このように第一審原告は本館及び新館の建物を使用して一ケ月平均一万円ないし二万円の収益を得ていたものと認められるけれども、東京拘置所職員が新館を占拠して以後右収益がこれによりどれだけ減少したか若し第一審原告が引続き新館をも使用し得たとすれば、新館使用に対応して幾何の収入を挙げ得たかという点に至つては、これを確認しうる資料がない。仮りに新館及び本館における宿泊又は飲食客の数が平均しており、両館使用の度合が均一であるとすれば、両館の客室数等を基準として新館の使用不能による損害額を算出しうるであろうが、その新館使用の度合とか、新館が全体の業績の上に占める地位、寄与の割合等に至つては、第一審原告提出の証拠によつては遂にこれを認めることができないのである。それ故第一審原告の主張する昭和二十三年五月五日以降昭和二十五年三月五日までの間、東京拘置所職員の新館占拠により第一審原告が営業上蒙つたとする損害の額はこれを確定することができず、結局この部分の請求は認容するに由がない。

次に、第一審原告は第一審被告の賃貸借契約上の債務不履行により旅館営業が不可能に陥り、営業権(賃借権を含む)を喪失したことによる損害の賠償を求めると主張する。しかし、第一審原告において現に賃借し、営業上に使用している本件建物を、第一審被告が賃借権の負担なきものとして国に譲渡したからといつて、右賃借権若しくは営業権が当然に消滅すべき謂れはなく、その賃借権は借家法の規定に基きこれを買主たる国に対抗し得た筈である。そして第一審原告がこれを終局的に喪うに至つたのは、前記甲第三十五号証及び当審証人飯村義美の証言によつて明かなとおり、東京地方裁判所に係属した国より第一審原告に対する建物明渡請求訴訟において第一審原告が飽くまでその賃借権の主張を維持して明渡を拒否することなく、調停による解決に応じ(第一審原告が訴訟進行の資力なきため、余儀なく調停に応じたような事情は認められない)、国に対する関係において本件建物についての賃借権その他一切の権利を放棄し、昭和二十五年四月二十日限り建物を国に明渡すべく、他方国より移転料名義の下に金七十五万円の支払を受けることを約した上、その調停条項の履行として本件建物の明渡を了したことによるのである。即ちこのような調停の成立するに至るまでの経過的事情としては、第一審被告が賃借権の附着せざるものとして本件建物を国に売り渡したことがそもそも紛争の発端をなしているものとはいいうるけれども、第一審原告が賃借権及びこれに伴う営い業権を決定的に喪つたのは右調停において自ら賃借権等一切の権利を放棄したことによるものであつて、第一審被告の右譲渡行為当然の結果とすることはできない。第一審原告の主張するように、国より第一審原告に対する賃貸借解約申入の正当性の存在をも考慮せざるを得ない結果、調停に応じたとしても、このようなことは以上の結論を左右すべき事由とはならない。結局第一審原告が本件建物の賃借権及びこれを基礎とする旅館営業権(即ち本件賃借家屋において旅館の営業活動を継続する権利若しくは利益)の消滅について、第一審原告に対しこれが損害の賠償を求めることはできないものと断ずる外はない。

以上説示するところは第一審被告の建物譲渡行為が単なる債務不履行であると、将又不法行為を構成することにより何等変るところはなく、仮に不法行為が成立するとしても、営業妨害による損害額の立証なく、また上記理由により賃借権営業権喪失の責を第一審被告に帰せしめることはできないので、不法行為を原因とする請求も認容しうる限りでない。

なお、第一審原告は第一審被告の前記調停を援用する抗弁は時機に遅れたものとして却下さるべきであると主張するけれども、前記内容の調停が成立した事実は第一審原告自ら進んでこれを主張したところであり(当審昭和二十七年七月十七日付第一審原告準備書面参照)、この点に関連する審理のため、特に訴訟の進行が遅滞するものとは認められないので、右の異議は採用しない。

果して然らば、第一審原告の本訴請求は全部これを認容し難く、従つて不法行為を原因とする請求の一部を容れた原判決は失当であつて、第一審原告のなした控訴は理由がない。よつて第一審原告の控訴を棄却すると共に、第一審被告の控訴に基き原判決を取消し、当審において拡張した部分をも含めて債務不履行並に不法行為を原因とする本訴請求の全部を棄却すべきものとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八十九条第九十六条に則り、主文のとおり判決する。

(裁判官 薄根正男 奥野利一 古原勇雄)

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